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お気に入りの賃貸

午後三時半頃になると、丁寧にお辞儀をして、そっと帰っていく。
初めのうちはなんとか理由を聞き出そうとした職員も、やがてあきらめて知らん顔をするようになった。 そんなとき、係長として池田さんが着任した。

すぐに目に止まったのが例のお年寄りであった。 「あそこにいる人は?」「ああ、あの人は気が変なんですよ。
でもおとなしいから、そのままにしてあるんです」気が変な人の顔つきには見えない。 といって、福祉事務所に助けを求めていて言いだしかねているようにも見えない。
池田係長は、昼食のときに一緒にお年寄りのお茶もいれて、話しかけた。 「寒くありませんか」「大丈夫です」「お茶をどうぞ」「ありがとうございます」丁寧に頭を下げて受け取り、おいしそうにすする。
しかし、お礼の言葉以外は、何を聞いても「いいえ」と首を横に振るばかりだった。 それから二週間ほど過ぎたある日の日曜日。
風の強い、かなり冷える日であった。 自転車で買い物に出た池田さんが公園の近くを通りかかると、寒々と人気のない公園のベンチに、一人のおばあさんが座ってパンを食べている姿が見えた。
「ひょっとして」いつも福祉事務所にやって来る、あのお年寄りでは? 近づいてみると、やはりそうだった。 「こんにちは。
このお近くですか」「はい、この近くです」嬉しそうに返事をした。 「こんなところで寒くないですか」「はい、寒いですね。
でも、福祉事務所がお休みのときは、ここしかなくて」「そうですか。 じゃ休日はいつもここに?」「はい。
いつも福祉事務所に入れていただいて、ありがとうございます」「いいえ。 でも、退屈じゃありませんか、何もすることがなくて」「いいえ。わたしは、昼間だけでも嫁が自由に家の中で好きなことができるようにしてやりたいだけなんですよ」「?」「家が狭いですからね、嫁と姑が一日中家の中にいては、窮屈でしょう。

いま、お腹の大きな嫁が、好き勝手に昼寝でもしたいだろうと思いましてね。 わたしがいては気が重いだろうと思いましてね、それでいつもおじゃまさせていただいております」「そうでしたか」たった一人のお年寄りでも、いろいろな事情を抱えている。
高齢化が急速に進んでいるわたしたちの身のまわりに、これに似たケ−スはどんどんふえるだろう。 こちらから働きかけ、わかろうとする姿勢がますます求められる時代なのである。
2想像力を働かせて、相手の気持ちを感じとる説得する相手の心の動きを正確に読みとれれば、それこそ思いのままに相手を動かすことができるだろう。 ベテランのドライバーがクルマを思いのままに動かすように。
問題は、どうやって正確に読みとるかだが、残念ながら、その方法はいまもって開発されていない。 「あなたのことはすべてお見通し」誇らしげに言う女性もいるが、びっくりするには及ばない。
そんなことは不可能であって、ただ言ってみて、あなたの反応を見ようとしているだけである。 相手の心がわからないから、牽制球を投げて、出方をうかがったりするのである。
このやり方も、毎度用いると相手に見抜かれ、相手の心を読むつもりが逆に読まれてしまいかねない。 相手側の条件を分析して、心の動きを予測するのも、よく使われる方法だ。
この方法も、人聞がもっと賢ければ、あらゆる可能性のもとに相手側の条件を分析できるけれども、人間はそんなに賢くできていない。 人の心を理解しようと、いろいろな試みがなされるのは良いことだ。
それによって、前もってある程度のことはわかる。 心の一部くらいは読むこともできる。
さて、ここからが大切だが、いざ相手と向き合って話を進める段になったら、想像力を働かせ、相手の気持ちを感じとるように努めることだ。 配属されて間もない若い社員が、女性の客を怒らせてしまった。
一か月も前に買ったブラウスを、太って着られなくなったので返品すると言う。 その態度があまりに横柄なので、若い彼はカチンときて、「でしたら、もう一度おやせになったらどうですか」これで客はカンカンに怒ったという次第。

フロアー・マネジャーが平身低頭、何度も頭を下げて、やっと客も気持ちを静めて帰っていった。 売場に落ち着きが戻ってから、若い社員を呼んだマネジャーは穏やかに問いかけた。
「お客様とのやりとりをもう一度聞かせてくれないか」若い社員は、いきさつを話した。 じっと耳を傾けた後、マネジャーは、「オレだって、入店早々同じ状況に置かれたら、同じように言ったかもしれないな」つぶやくように言った。
マネジャーは、若い社員の状況を想像しながら気持ちを感じとつたのである。 「しようのない奴だ」「バカなことを言って」こうした感情的ないら立ちをいったん脇に置いて、相手の側に自分を近づけ、話に耳を傾けてみる。
すると、相手の気持ちに共感できるのだ。 マネジャーはそれを実践した。
人は、共感してくれる相手に心を動かされる。 若い社員も、「申しわけありません」素直に詫びることができたという。
出方をうかがう駆け引きも、事前の調査・分析による予測も、読み違いが少なくない。 とすれば、その場で相手から話を聞き、話の中から、相手の気持ちを感じとる力を磨く必要がある。

ここで大事なことは、自分の考えや感情を押しつけないことだ。 自分とは違う相手の考えを知ろう、気持ちを感じとろうと努めるのが、「聞き役に回る」ことだという点を忘れないようにしよう。
3一歩距離をおいて、相手を観察する人の話を聞くときは、耳を傾けるだけでなく、目を働かせて、表にあらわれた心の動きをつかむようにしなくてはならない。 問題なのは、聞く人の目である。
目は、人間の五官の中でも、いちばん感情的な影響を受けやすい。 人間は目で見たことは信用するが、自分の目が確かであるかどうかは問わないことが多い。
惚れてしまえば「あばたもえくぼ」で、形のあるものでさえ、取り違えて見える。 まして、もう一つ奥に潜む心の動きは、感情に左右されていたのではとうていつかめないだろう。
何年も前のことだが、人をほめるのが上手な中年の男性がいた。 彼は「ああいうことは、なかなかできないことですよ。
すごいですね」と言っておいて、「フフフ」と含み笑いをし、指の先で唇を押さえるのだ。 ほめられていい気分になっているうちは、彼の含み笑いや唇に手をやるしぐさが何を意味するかわからなかった。
何度か会ってやっと気づいたのだが、彼が相手をほめるのは、別に意図があってのことだった。 屈折した心の持ち主で、相手を見下したくなると、反対にほめまくって含み笑いをするクセがあったのである。
目は、相手を観察する器官として有効に働かせたいものだ。 そうすれば、聞き役に回って相手の心をつかむのに役に立ってくれる。
B氏といえば、「アジャパ−」を流行語にした喜劇俳優として有名だ。 同時に、酔っ払いを演じると右に出るものはいないと言われるほど、酔っ払いの演技のうまい役者だった。
わたしは、さぞかし酒飲みだろうと思っていたが、本人はまったくの下戸だということだった。 考えてみれば、自分が酔っ払っていたのでは、酔っている人間を観察できない。

彼は酒を飲まない人間だったからこそ、酔っ払いをよく観察して演技に取り入れることができたのである。 この例が示すように、相手をしっかり観察するには一歩距離をおく必要がある。

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